香取神宮をあとにし、県道55号線・香取街道を西へ向かう。
気がつくと道路の両側には古建築ばかりが立ちならんでいる。
水郷・小江戸「佐原の町並み」だ。
中心地である「忠敬橋」近くに駐車し、散策してみることに。
佐原はかつて、利根川舟運によって街全体が栄華を極めていたのだとか。
佐原で一番来てみたかったスポットは樋橋(ジャージャー橋)。橋梁マニアね😊
まぁそれは次回詳しくつづることとして、まずは伊能忠敬の旧家から。
案内ボランティアの方もヒマそうお手すきだったみたいで、いろいろ話を伺ってみた。
いくつかメモを。
まぁそれは次回詳しくつづることとして、まずは伊能忠敬の旧家から。
正直な話、つい最近まで「佐原は伊能忠敬が発展させた街」って知らなかった。
忠敬はこの地の名主で、有名な測量士(地図作成)としての人生を後半部とすれば、前半部はここ佐原で商業を営んでいたそうだ。
案内ボランティアの方も
いくつかメモを。
・忠敬は酒造や醤油などの醸造業および問屋業をはじめ、今でいう総合商社を営んでいた・生まれは九十九里で、佐原の伊能家に婿入りした(末っ子であったため)・小野川を境に東側を本宿と呼び、西側を新宿と呼ぶ。伊能家は本宿にあった(今いる場所)・夏祭りは本宿と新宿で今も別開催。本宿は八坂神社(より正確にはその前身である牛頭天王社)信仰で祇園祭。新宿は諏訪社信仰で信州諏訪社の御射山神事に由来・忠敬は測量の勉強のため50歳で上京。天文学者の高橋至時に弟子入りするが、師匠は19歳年下だった・商人という職業柄数字の強く、また氾濫する利根川の影響によりこの地で測量を日常的に行っていたため、実体験に基づく測量の知見は豊富にあったみたい・第一の人生(商人)、第二の人生(測量家)。お墓は測量の師匠の隣(上野・源空寺)にあるのだとか。つまり佐原にはなく、第二の人生側で生涯をとじている・伊能家の末裔はひとりも佐原に残っていない。学者や文化人になって佐原以外に在住しているのだとか
さて忠敬橋(こちらは「ただたか」ではなく「ちゅうけい」橋。有職読みってやつかな)近くの重厚な古建築に「さわら十三里屋」というのぼりが立っていた。暖簾をくぐってみることに。
江戸時代の文化好きであればわかるね、十三里は「さつまいも」のこと。
「栗より(九里+四里)うまい十三里」😊
江戸時代の文化好きであればわかるね、十三里は「さつまいも」のこと。
「栗より(九里+四里)うまい十三里」😊
「らぽっぽ」で有名なところね。
さて、その後もいくつかお店をハシゴ。
ひっそりと伝統を受け継いでる店、けっこう多いんだな。
小野川周辺を一通り歩いた感想として、このあたり観光地としての整備はまだまだ道半ばといったところ。
ゴミ収集車を待つ家庭ごみが一部野ざらしになっていたりと、訪問者と地域住民との間で観光に対する意識の差があるのかなぁと感じざるを得なかった。
伝統的建物の保存条例制定は20数年前、小野川治水の放水路の供用は15年前ときいた。
観光地としての本当の盛り上がりは、もう10〜20年以上かかりそうな気が。
まぁなにより、個人的に強く興味が惹かれるものがここ佐原にはある!
…次回につづく。w
Yoichi